吉本新喜劇人物列伝

吉本新喜劇を心から愛する管理人の整理用ブログ

歴史

こんにちは。

 

吉本新喜劇の楽しみ方はそれぞれだと正直思います。

 

劇場で観るもよし、テレビで観るもよし、BGM的にテレビからにぎやかな声を聞いていてもよし。

 

ただ、このように気軽にレベルの高いお芝居を観られる環境がいかに整ったのかざっと理解しておいても良いかと思いウィキペディア(2015.07.05現在)で調べました。

「 ウィキペディア」より

当時、吉本興業事業部次長だった八田竹男は、テレビ時代の演芸の形として、うめだ花月に観客を集めるため、所属芸人がテレビで名前を売る場を設ける必要があると考え、まったく新しいスタイルの軽演劇を起こすことにした。この軽演劇こそ吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」で、うめだ花月MBSテレビ双方の大看板になるべく、両社の社運をかけて立ち上げられた。

MBSテレビ開局当日となった1959年3月1日、うめだ花月も開場。吉本ヴァラエティの初公演アチャコの迷月赤城山が記念番組として生中継された。これがこの番組の源流である[2]。しかし、開局後しばらくはスポンサーが取りにくかったこともあって、新喜劇は不定期放送だった。

レギュラー番組化 - 全国ネット[編集]

やがて大正製薬がスポンサーに付きサモン日曜お笑い劇場」の名前で、日曜正午から45分間に渡り放送された。また、初期(1962年12月2日 - 1963年秋)の頃、当時MBSのキー局であったNET(現:テレビ朝日)をはじめとする同系列全国同時ネットで放送された。しかし、笑いの嗜好がまったく異なる関東では受け入れられず、NETは翌1963年(昭和38年)6月、水曜日昼枠で地元芸人を中心とした『テレビ寄席』を立ち上げる。MBSでは『テレビ寄席』もネット受けするが、今度は逆に近畿圏の視聴者が東京の寄席に馴染めないという理由で低迷。関東での好評によって『テレビ寄席』が日曜正午へ移動した同年10月の改編で、MBSは『テレビ寄席』を、NETも『サモン日曜お笑い劇場』の放送を互いに打ち切りあった。

 

とまぁ、一部切り抜きではありますがテレビ局の都合や時代のニーズなどが紆余曲折もあり、進化して今の形態を形作ってきたのだと思います。

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